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清家農園みかん山通信(63号)平成19年12月号

 みかん畑の端の陽だまりに白い野菊と黄色いつわぶきの花が仲良く咲いています。まるでのんびりと日向ぼっこをしているようです。きっと「人間は十二月だ、師走だ、とあくせく走り回ってお気の毒ね」と話しているのでしょう。みかん山に囲まれたダム湖には鴨の家族がくつろいでいます。カモ語が話せたら長旅の様子や北国の話が聞けるのになあと、毎年思います。
 11月号に次男の事を無断で書きましたら名誉毀損で訴えたい位と怒られました。お嫁さんが来てくれないと困りますので私はいたく狼狽し反省し、彼の名誉回復の為に以下の事を書くことにしました。農業は今だ見習い中ですが、JICA青年招聘の資料の英訳、翻訳、研修生の通訳兼手伝い、外国人対象の日本語教室の先生、外国人長期研修生やALTの書類作りや相談役等のボランティアをしています。以上。。。。。。これに懲りて今回は、絶対に文句を言われない、善一の祖父善太郎(故人)のお話です。善太郎は、清家定太郎の長男として明治10年に生まれました。母のササは、山下汽船(現・商船三井エージェンシーズ)の創始者山下亀三郎(横浜・山下公園で有名)の幼なじみで小町と言われるほど美人でした。ササはとても働き者でしたが気も強く、気にいらない事があるとさっさと風呂敷包みをしょって山を越えて、隣の集落の実家に帰って行ったそうです。ササの言い分によると、姑マツが家付き娘でえらかった(きつかったの意)のでご飯のお替りをすると、(まだ食べるのかと)茶碗をしゃくりとられて辛かったのだそうです。さて小町の息子善太郎は“色は黒ても善さんならば”と近隣で唄われる程の六尺豊かな偉丈夫になりました。村から選ばれて日露戦争にも行きました。善太郎が松山の連隊にいる時に、ササは次男の彦乃進(4歳)を背負い面会に行きました。今では松山迄の高速道路も出来、1時間余りで行けるようになりましたが当時はトンネルすらほとんど無く、数え切れないほどの山や峠を越えて何日も掛ってようやくたどり着く事が出来たのでした。母の執念とはすごいものですね。この話は私が嫁いで間もない頃、善太郎が55歳の時に結婚した7番目の妻、モトばあちゃん(3回目の結婚)から何度も聞いた話です。モトばあちゃんは善一とは血は繋がっていませんが、善一を小さい頃からとても可愛がってくれました。気の強いササばあちゃんを姑に持って、モトも随分苦労したようです。ササは80歳を過ぎても風呂敷包みをしょって実家に帰るので有名だったそうです。とても足腰の丈夫な人だったのですね。ササばあちゃんが80歳を越しても登っていた梅の木が今でも健在です。ササばあちゃんの話をインプットされた若かりし私。まだ車の免許を持っていませんでした。ある日、2時間に1本のバスに乗り遅れコロコロと太った次男をおんぶして、長さ1m重さ数kgの巻いた金網を抱えて吉田の商店街から我が家迄4km余りの道のりを歩いた事があります。2時間後のバスより1分でも早く家に帰ってお昼御飯を作らねばとあせったのです。今なら図図しく次のバスで帰ったことでしょう。ササさんは松山迄歩いたのだから、たかが吉田町から東蓮寺迄の4kmぐらい私にも歩けると思ったのです。甘かった!!!標高6000m近くのキリマンジャロに登った時より辛い位でした。我が家は自称ビバリーヒルズなので山の上、お隣は一段低い所にあります。ヨチヨチ歩きの長男が道の端から転げ落ちたら死んでしまうので金網を張りたかったのですが忙しい善一は取り合ってくれません。私は金網を自分で張ろうと決心しました。ある日長男をモトばあちゃんに預け次男をおんぶして町まで金網を買いに行きました。(続きは1月号です。すみません) 

“皆様どうぞ良いお年を“

飛行機雲一直線に蜜柑山