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清家農園みかん山通信(81号)平成22年12月

 先程まで青空の下、みかん取りをしていました。晴れたみかん山は暖かく冬用ヤッケは暑くて汗をかきました。ところが今こうして家の中でじっとパソコンに向かっていると、先程の暑さはどこへ行ったのかと不思議になるほど足下から寒さが這い上がってきます。無理もありません今日から12月、師走なのですから。そろそろみかん発送もおしりに火がつき始めてきました。エンジン全開で頑張ります。
 「アフリカの水を飲んだ者は必ず再びアフリカに戻ってくる。」という諺がありますが、善一38年、恭子37年ぶりにやっと実現出来ました。まだ梅雨が明け切らない7月5日関西空港を発ち9時間程で中東カタールのドーハ空港に到着。空港で3時間程待った後、乗り換えて約5時間でケニアのナイロビ空港着。日本を出てから17時間余り。ナイロビは激変していました。昔、駄鳥が走っていた空港から市内までの草原は工場地帯と化し、人口は37年前の実に11倍の440万人となっており、街中は車が渋滞し、人が溢れ、至る所高層ビルの建設ラッシュ、騒音と排気ガスで気分が悪くなりそうでした。ほんの3日間の滞在でしたので昔の任地を尋ねるのは無理と思っていたのですが知人の好意で訪れることが出来ました。予想外に大歓迎され応接室に通されて、図々しくも芳名帳に記入までしました。事務所に居合わせた生徒達は「37年も昔にここで教えていたの!ヒェーッ想像もつかない」と言う顔をしていました。ただの草原だった構内は花が咲き揃いまるで公園のように整備され、トタン葺きの校舎は、白亜の二階建てのオフィスとなっていました。かつての同僚には会えませんでしたが上司だった方がトップになって壁の写真に納まっていました。生憎、昨年定年退職されたそうで会えませんでした。所長やスタッフの方達と記念写真を撮り後日送りました。まるで夢をみているような幸せな時間でした。
次の日はマラウィに向かいました。ナイロビから4時間の飛行で首都のリロングウェ着。翌日、レンタカーを借り運転手を雇い次男の任地デッサへ出発。レンタカーを借りた際「息子がJICAのボランティアなの」と言うと「何故それを最初に言わなかったのだ」と保証金を返してくれました。デッサまでは約80キロ、幹線道路は舗装してありますが幹線から逸れるとひどい悪路で真っ直ぐ進めず、雨期にえぐれた溝を避けてジグザグに進みます。普通アフリカの田舎暮らしをするとほとんどの隊員は痩せるのですが、次男は何故か以前より太っていました。官舎は畑付きで3LDKの広い家でした。昼間と夜に各一人警備員を雇っていました。隣国モザンビークとの国境まで僅か5キロ程きり離れていないので、強盗団がやってくるそうです。つい最近もお隣に泥棒が入ったばかりとのこと。昼間の警備員は、息子が仕事に出掛けると貸してあげた畑の世話やアルバイトに行ったりしてしまうそうです。夜の警備員は貸した木炭コンロの横で毛布にくるまり寝ているだけ、(デッサは海抜が1500m程で乾期には気温が15℃位に下がり夜は寒いのです。)それでも息子一人きりで住んでいるよりは安全なのだそうです。幸いなことに向こう三軒両隣、上司、同僚みな良い人達ばかり、街の市場にも行きつけの店が出来、家族ぐるみで付き合っている親しい友達も居り、マラウィの暮らしを充分楽しんで居る様子でした。私達が泊った部屋とトイレは電気が付かずろうそくが必需品、お風呂はたらいに入れた水にやかんで沸かしたお湯を混ぜて浴びるという37年前とさして変わっていない暮らし方さすがアフリカと苦笑しました。マラウィは世界の最貧国と言われ、エイズ問題などもありますが人々は日本より生き生きと暮らしているように思いました。紙面が尽きました。続きは1月号です。今年のみかんは夏の旱魃で小さめです。お許し下さい。

子の無事を祈る彼方や寒昴