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清家農園みかん山通信(117号)平成28年12月号

 12月。1年間がすでに過ぎ去ってしまったことを認めざるを得ない月。今年も1年間なんとか生きてきたと思う月。皆様はどのような1年間だったでしょうか。
まずは今年の清家農園のみかんの作柄。夏、旱魃に近い状態で雨が降らず、みかんの木は青息吐息。根本にカミキリ虫が入っていたみかんの木がかなり枯れました。減農薬栽培の宿命です。何回もやって来た台風!待ち兼ねた雨は期待程降らず風ばかり。みかんの枝や実がちぎり飛ばされ、老木10本程は、根本から倒されていました。物干し台の屋根も全て飛ばされ、蔵の屋根瓦もズタズタ。自然の力恐るべし!でもみかんは長雨の昨年より美味しくなりました。秋に雨が多めだったので少し残念です。
さて大好きな遊びのお話。今年も年金を叩いて、行ってきました。マチュピチュ、イグアスの滝、ナスカの地上絵。協調性のない私達夫婦は割安運賃の飛行機やホテルを利用し、日程も行き先も自分で決める旅をしてきましたが、南米は乗り継ぎも多く、マチュピチュ迄辿り着けるか心配だったので阪急トラピックスに申し込みました。南米は遠かった。アフリカよりアバウトだった。数々の困難に体を張って乗り越えてくれたのはメキシコ育ちの田中添乗員。達者なスペイン語を駆使して飛ばない飛行機を飛ばし、時間が足りないと、触りだけでもと夜のクスコの町を案内し、メンバーがホテルに忘れたバッグを振り分け荷物を担いだまま、何百メートルも走って取りに行き、貧しい現地人を心底応援し、親身に相談に乗り、リュックに入れてきたお菓子や品物を渡し、実に破天荒な、元同時通訳&翻訳者の添乗員でした。あれ程よく動くのに彼女がふくよかな体型をしているのが不思議でした。田中さんは今もスペイン語圏を走り回っているかしら。
さて肝心のマチュピチュ。人呼んで海が近いマチュピチュに住んでいるのに南米くんだり迄行く必要ないと思っていた私ですが、もし善一がぽっくり死んだ時に、「あんなにマチュピチュに行きたがっていたのに」と後悔すると思っての敢行。当時遺跡の頂上の人口550人。周りの、目もくらむ急斜面はすべて段畑。私は思った。「宇和島の段畑の方がずっと規模も大きく立派。宇和島の段畑も世界遺産になれる!インカ帝国と張り合える程の段畑が有る宇和島に住んでいるなんて、なんて素敵な所に私は住んでいるのだろう」自画自賛?ちなみに、遺跡が発見されてからの麓の村の初代村長は日本人で福島の方だったそうです。あの切り立った山の中まで分け入り村を起こすなんて会津魂はすごい。物語性はマチュピチュ。圧巻はイグアスの滝。私の知っている滝は小学校の修学旅行で行った華厳の滝ですから。華厳の滝が髪の毛一筋としたらイグアスは枝葉の茂る大樹。命がけの滝壺遊覧船は絶叫できた。ナスカの地上絵はセスナに酔って散々。45年昔はセスナなんてへっちゃらだったのに。以上体力勝負の南米旅行でした。
お盆明けには、10年前にJICAの青年招聘でお世話をした研修生がインドネシアから家族連れ5人で来日。炎暑の中1日みっちり宇和島を案内。次の日は寝込んだ。「ジャカルタに元研修生23人が集合してお父さんお母さん(私達夫婦)を空港に迎えに行くから来年はインドネシアに来て」と言われました。ウフフ*善一と高校生のカンボジア珍道中は1月号にて。 どうぞ良いお年を!

ほんとのみかん 清家農園

我が庵囲むはみかん山ばかり