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清家農園みかん山通信(147号)令和3年12月号

 コロナに明けコロナに暮れたこの1年、閉塞感に充ちた日々をいかがお過ごしでしたでしょうか? なんと師走。1年の締めくくりの12月になりました。やっと少し落ち着いてきたと思ったらオミクロンなどという名前の新種株が出てきて人類を脅かして始めています。せめてお正月過ぎ迄は今の小康状態を保っていて欲しいと願っていますが、ビクビクものですね。離れ住む子や孫と2年振りに会う予定でいますがどうなることやらと心配です。ウイルスにとって人間などただの通りすがりの宿主ぐらいなのかも知れません。ましてや地球にとっては厄介者に近い人間がウイルスで困っていても「べつにー」という感じなのではないでしょうか。「それでも地球は回っている」どころか「どこ吹く風で地球は回っている」のでしょう。とは言え人間が絶滅するわけにもいきませんから、今迄のように「人間様だい!」と威張ってしたい放題をするのではなく、これからは地球のご機嫌を損なわないようにしおらしく暮らさなければいけないのかも知れません。
夫善一の曾祖母が日露戦争に征く長男善太郎(善一の祖父)を松山の連隊迄、徒歩で2日掛かりで行ったそうですが117年後の今は、松山まで高速で1時間ちょっとで行くことが出来ます。吉田町は平地が少ないので、昔は収穫したみかんは、蜜柑山に建ててある何箇所もの小屋に天秤棒で運び、全てのみかんを収穫し終わると、屋敷内にある養蚕まで(その昔は蚕を飼っていたので、私が嫁いだ頃にも1階と2階にそれぞれ8畳の間が8部屋も有る養蚕と呼ぶ建物がありました)1km程の距離を木馬(きうま)といってソリのようなものにみかんを乗せて運び下ろしました。農耕用と娯楽の闘牛用に牛も飼っていました。その後大八車、リヤカーとなりましたが、人件費が安かったのでみかんが出来ない山間部から常時数人の男女を住み込みで雇っていました。田んぼはみかんとは逆に麓の平地にありましたので収穫した米は稲架で干し脱穀して俵に詰めてからその建物に貯蔵し、何十回もかけて担いで海抜60メートルの家の蔵まで運んだそうです。何もかも人の手で重労働をしなければ農業は出来なかったのです。それも今は昔、農道も全て舗装され蜜柑山も隅々まで道が通り収穫した蜜柑は運搬車かモノレールでトラック迄運び倉庫へ直行です。田んぼもほとんどの作業は農協に頼み、稲刈りもコンバインからトラックの上のホッパーの中にビューっとお米が入り、それを農協の乾燥場に運び乾燥が済むと家の蔵まで運ぶだけです。お米は籾で貯蔵して置くといつ迄も美味しいので我が家では全量のうち籾が半分、玄米半分で貯蔵します。事程左様に時代と共に便利になり、天秤棒も物置で眠っていますが自給自足から遥か離れた農業は、ガソリンの値に一喜一憂し、パソコンも必需品となって頭を悩まさなければならない様になりました。大家族で季節々の行事を守り暮らしていた昔の暮らしが全て良かったとは思いませんが、大切なものをひとつずつ手放して来てしまったのではという思いもあります。この辺で少し立ち止まって何が本当に大切な事なのか考えて、出来る事から実行してゆかないと、滝から落ちてしまうような状態になるのではと、どなたも感じているのではないでしょうか?10月末迄で夏のように暑かった為かカメムシが大発生して蜜柑の絨毯が出来る程落果してしまいました。生き残りのしぶとい蜜柑を悩みながら選果しました。
皆様どうぞ健康に十分注意されて良いお年をお迎えできますように。

落日の海もみかんも黄金色