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清家農園みかん山通信(95号)平成25年2月号

 2月1日を待つかのように、昨日数輪の梅が開きました。鉢のビオラも可憐に咲いています。屋敷中にはびこり咲いている数百株の水仙のうち数本を玄関の砥部焼の壺に指したところ、家の中に水仙の香りがいっぱいに広がりました。大益荒男(おおますらお)2人と六十路のおば(あ?)さんの3人の暮らしはともすれば殺風景で味も素っ気も無くなってしまいます。「お花のお陰で家族が少しでも優しい華やかな気持ちになってくれたら嬉しいな」と願っての、みかんと物々交換で頂いた砥部焼の壺に活けた水仙です。わかって貰えるかなぁ。あの男達に。
 「まってくれー」と追いかけたい程足早に1月が行ってしまいました。お正月が終わるや否や仕事はいくらでも尽きることがありません。採り残しのポンカンと伊予柑の収穫 3千数百本も搾ったジュースのラベル貼り、延々と続く何万袋もの ネーブル はるみ デコポン せとか 清美の袋掛け。お隣の文子姉さんは毎日、友達は週末に我が事のように手伝ってくれています。注文のみかんを、時間に間に合うようにとあせって郵便局に持って行く途中、川土手やダムの廻りをいつも仲良くウォーキングしている何組かのご夫婦とすれ違います。「いいなぁ暇そうだなぁ。私も歩きたいな」「それどころじゃございませんよ。あれもこれもあなたは仕事に追いついていないじゃありませんか」「はいわかっております」車を走らせながら自問自答。もっと要領よく仕事をこなせば歩く時間ぐらいひねり出せるはずなのですが。べリーべリー難しい。愚図&朝寝坊な私にとって。   それではと強制的に休暇がやって来ました。2泊3日。宇和島市立病院。行き先が悪い。痛い。集団検診に引っかかり大腸ポリープを取りました。時々クリームチーズを舐めたのがいけなかったのか?みかんの摂取が足りなかったのかも、、、、etc。笑わないで下さい。結構落ち込みました。食生活には気を付けていたつもりでしたが反省すべき事も多々。後の祭りですね。病室のある8Fからの眺望は素晴らしく真正面は、現存十二名城!重要文化財!宇和島城天守閣!!!鬱蒼とした城山の麓には子供たちが通った宇和島東高校。城を囲むように宇和島の街が広がり街を囲んで山が迫っています。街の西方は幕末、シーボルトの娘おイネに蘭学を教えた大村益次郎(村田蔵六)が蒸気船を浮かべた宇和島湾。「広い世界に飛び出せ」と促すように開いています。港には小さな造船所があり数機のクレーンが空に向かって屹立し、その先の海には島々を巡る定期船や漁船がのどかに出入りしています。沖には真珠やハマチ、鯛の養殖筏。湾に沿って高知方面に高規格道路が延びています。宇和島駅は終着駅なので宇和島以南の住民は、昔は船、現在は道路を利用する以外交通手段はありません。高規格道路が出来て、海沿いのくねくね路を延々と往還しなくてもよくなり皆喜んでいます。街を俯瞰しながらほとんど鳥の心境になっていると窓外目の前に鳶がゆったりとホバリング中。まるで「ちょっと近くに来たので寄ってみたけど調子はどう?」と声を掛けに来て貰った気分でした。紙袋に一杯持ち込んだ本は読み切れませんでしたが、病棟の東西南北の窓からの眺めを思う存分堪能出来て、支藩の旧吉田藩の住民なれど伊達のご城下宇和島を前より一層好きになりました。あまり美味しいとはいえない病院食でしたがすべて完食。たまには上げ膳据え膳の入院もいいものだと、、、。負け惜しみです。
 3日ぶりに帰宅すればば仕事の山。山。地域や関係している団体の行事の目白押し。(秋から年末に掛けてみかん産地ではほとんどの行事が停止し年明けの1,2月にどっと押し寄せるのです。青色申告も手を付けねば。ホームページもみかんシーズンの始まりからほったらかしと、焦りつつも今は必要最低限にして怠け者を決め込んでいます。

ほんとのみかん清家農園 http://mikanyama.com

入院といふ冒険もあり寒最中