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清家農園みかん山通信(92号)平成24年11月号

 ようやく暑くて長い夏が終わり、やっと涼しくなったと思う間もなく冬布団の欲しい気候となりました。
 政治は混迷の度を深め、経済は一向に上向かず、お世辞にも明るいとは言えない世の中ですが、みかんは刻々と色付き、熟し、美味しくなってきています。近くのダム湖では鴨が日毎に数を増しています。自然の営みは毎年実に律儀で正直です。皆様も暑い夏を乗り切り、束の間の過ごしやすい季節をお過ごしの事と思います。ご無沙汰しておりました半年の間に私は孫が一人増えました。6月18日、末っ子の娘に第3子が生まれました。「ビワの荷作りが終わり7月に予定している旅行の前に産んでね」という私のリクエストに応えて、不作だったビワの荷送り最終の日の深夜「生まれそう」の電話。夜中の高速を飛ばして松山の病院へ。明け方男児誕生。次の日から、入院中のママ、仕事に忙しいパパの代わりに、7歳と5歳のお姉ちゃん達の保育園や習い事の送り迎え、食事入浴の世話と大忙しでした。娘が退院後も遠い記憶をたどりつつ新生児の沐浴の手伝いなどあっという間の2週間。本来ならば1ヶ月ほど手伝ってあげたかったのですが、7月初めには、善一のタンザニア同期会がパラオであり、付録の私もついて行く気満々なので、「ごめん」と思いつ言いつ鬼のおっかさんは無情にも帰宅断行。数日後目いっぱいのお洒落をして成田に一泊。翌日、北は岩手、南は九州福岡の総勢9人が空港に集合。空路5時間でパラオ到着。愛媛から成田空港までよりずっと簡単で楽な旅でした。同期会のきっかけはパラオに住む同期OBを訪ねるというものでした。彼は格別裕福という訳でも無さそうでしたが、パラオ人の奥様の一族郎党の面倒を見つつ悠々と暮らしていました。私達は40年という歳月を飛び越え気分は青春時代。出っ張ったお腹も、泳げないのも無視して船上からダイブしてのシュノーケリングに挑戦、抱腹絶倒の珍場面も何のその、溺れる恐怖と引換に美しい珊瑚礁を堪能しました。インストラクターの韓国人のお兄さんは私達の年齢を知って「ヒエーッ僕のお母さんよりずっと年寄り、でも次に来る時は泳ぎの練習をして来てね。こんなに何にも出来ない人達初めて!」と呆れ果てていました。戦時中この海域のロタ島で看護師として働き、運良く生き残った亡母から、よく名前を聞いていたパラオはロタ島同様日本の委任統治領であった為、無数の弾痕も痛々しい日本軍司令部跡や島陰に沈んでいる特攻艇、「新水道」と今でも呼ばれている水路や、橋などが残っており、ただ楽しむだけの島ではないことに胸の奥が疼きました。時がゆったりと流れていたパラオから帰国し松山空港近くの娘宅に寄りました。「あらこの子、日に焼けたんじゃないの?」「焼けていませんよ。ただ色が黒いだけ。男の子だからおしろいが要らないからいいのよ」「そうだね」 気にしない、気にしない。遺伝の法則だから仕方ありませんよ。後日1ヶ月検診に行った時、色の白い赤ちゃんと並んだらまるで白黒のオセローゲームみたいだったと電話で娘が言っていました。色は真っ黒でもいつも機嫌がよく ニコニコ笑っているあっくんは食べたいぐらい可愛くていい子です。忙し過ぎたり、独身の息子のことが心配で寝られない時はいつもあっくんや孫達の顔を思い浮かべるようにしています。   

亥の子唄まはらぬ舌で大声で