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清家農園みかん山通信(73号)平成21年4月号

 愛媛はここ数日花冷えの日が続いています。桜も散るのを忘れたかの様に健気に咲き続けています。皆様には4月から生活が一変された方もいらっしゃる事と思います。ピカピカの1年生、就職、転勤、退職、人の一生には実に様々な転機があるものですね。さてみかん山は草が元気いっぱい、幼木など草に埋もれて見えなくなりそうな勢いです。芽摘み、草引き、せとか、デコポン、清美タンゴール、甘夏の収穫、新品種の苗木植えと仕事の洪水にあっぷあっぷしています。と言いつつ、つわぶき、ぜんまい、蕨とおいしい山の幸の誘惑に負けて、山菜採りについ夢中になってしまいます。みかん山への行き帰りの小道にすみれが咲いています。最近は眼を皿にして探してもほんの数株きり見つけられません。除草剤を使う農家が増えたからだと思います。10年程前にダムが出来る前にはそれは見事なすみれの斜面があったのですが、今ではコンクリートで覆われ1本のすみれすら見ることが出来なくなってしまいました。春になり、その道を通るとコンクリートの奥に閉じ込められたすみれが泣いている様な気がして心が痛みます。何とかしてすみれを増やす方法は無いものかと思案しています。すみれの話ばかりですみません。今回は余りに色々な事がありすぎて何から書いてよいのやら。3月半ば善一がみかん売りに出発した13日、次男福島の協力隊訓練所より帰宅。今日は市役所、明日は県庁と表敬訪問に飛び回っていました。おまけに親子3人が協力隊と言うのは初めてという事で地元テレビや新聞に取り上げられ穴があったら入りたい思いでした。35年前には「協力隊?何それ?」という感じで表敬訪問など1件もありませんでした。時代の変貌を実感。壊れたトランクは私が我慢しきれずインターネットで探した神戸のカバン工房に頼み込んで出発に間に合う様に修理して貰いました。「かまい過ぎ」と自覚すれど手と口は勝手に動き、煩がれながらもやれパンツだシャツだ裁縫道具だと用意してしまう愚かな母。お彼岸、やたらに徒っ広い墓地なので「掃除が大変」という文句を飲み込み、ご先祖様、犬のアトム、戦国時代の無縁仏様にまで次男の無事を頼んでしまいました。任地は内戦後のモザンビークとの国境のマラウィの村。昼間1名夜間2名の警備員を雇う必要があると息子から聞いたからです。19日善一走行距離約2000kのみかん旅より帰宅。20日知人の結婚式善一出席。21日、長男一家、長女一家、私達夫婦、やっと荷造りが間に合った次男総勢11人松山近郊砥部に集合、1泊。成田への荷物の発送は先輩OBの砥部焼窯元に頼む。22日、パソコン・デジカメなどを買い整える次男と善一を残し、子連れ組と私は砥部動物園へ。孫達の一挙手一投足が可愛くてたまらない。昼食時全員集合。柳井への船便の都合で長男一家とはそこでお別れ。長女一家と共に空港に次男を送る。松山在住のOB夫妻も見送りに来て下さる。何と沢山の人達が次男を助けてくださったことか。24日私は小学校卒業式出席。善一せとか収穫。式後携帯が鳴る。「動けない、来てくれ」119番通報。友達のご主人と息子さんが山迄救急車の先導を、お隣のご主人が一緒に担架を担ってくれた上、せとかも車も家まで運んでくれました。救急車中血圧225。医師である娘夫婦も松山から駆けつけてくれCT,MRIの検査の結果異常なし。多分過労による三半規管の不調ではないかとの事。治療の方法も無いので4日目に退院。もう若くは無いのだから気をつけなさいとの体からの危険信号なのでしょうか。もう少し仕事の量と酒量を減らすことが必要と痛感しました。

たらの芽の晩餐明日はアフリカへ