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清家農園みかん山通信(54号)平成18年3月号

 二月がさっさと去って行き、気がつけば三月、野は春です。茶の間から見える向かいの山は菜の花色に染まっています。私の二月は悲惨なものでした。昨今、公式書類といえばほとんどすべてパソコンの世界です。これが事務音痴のおばさん泣かせ。一年間放っておいた青色申告(毎年の事ですが)と国際交流協会への県からの補助金の事業報告と収支決算。数百枚の領収書とパソコンに翻弄されながらパズルの様に数字を組みたててゆく作業の日々は、数字と機械に全く「ひらめき」の無い私にとって過酷なものでした。自分でも全く呆れ果てる程行ったり来たりの繰り返し。どちらも締め切りに追われ、もう脳はパンク寸前、、、。まだありました。救援衣料。婦人会の仲間が「総会前に終わらせたいから早よやろうや。」何故か救援衣料は私が世話役になっています。泣きたい心境でしたがそうもいかず決行。おまけに、善一の98歳の伯母が老衰で亡くなり、私も三日間お手伝いに通いました。牛蒡を削いだり洗い物をしたりしながら頭の中は数字だらけ。伯母さんごめんなさい。その後徹夜と半徹夜を再々。心なしか白髪が増えたみたいです。お肌の荒れと目の下の隈とを引き換えに、やっと両方の書類に目鼻が付いた時には三月が訪れていました。目はしょぼしょぼ肩はコチコチ。『お前が補助金申請したんだから最後まで責任取らんといけんやろ』「ごもっとも」とわかっちゃいるけどこの辛さ。「交流協会のメンバーは私がこんなおもいをしながら補助金申請や事後処理しているの知ってるのかなぁ」なんて思ったりして。「いけん、いけん、好きでやっているんだから恩着せがましいこと考えてはいけませんぞ」ともう一人の私の声。可愛い孫達の声を聴くどころか大切なお客様への注文承りの電話を掛ける余裕すら有りませんでした。まさに「何処まで続くぬかるみぞ」と言う心境でした。しかし、トンネルもいつかは出口にたどり着くもの。冬の次は春が来るもの。今つくづく、しみじみ実感しています。あの作業のお陰で、とっくの昔に死滅していた私の左脳がもしかしたら目覚めたかもしれません。そうだったらいいなぁ。いや、そうに違いない。だったらすごい収穫ですよね。そして、その間中ずっと一人で黙々とみかんの仕事に精だしてくれていた善一に感謝、感謝。ありゃりゃ、ほっとする間もなく7月の青年招聘事業(インドネシア研修生)の打ち合わせのファクスが届いています。自分の能力を省みもせず懲りない人間であります。「なんとかせにゃー」と心配してくれた孫の顔が浮かびます。早く片付け掃除に取り掛からねば。みかん山にも行かねば。その前に、まずはこの通信を完成させてみかんの箱詰めです。久し振りにみかんの仕事が出来るので嬉しいな。受験生の皆さんにも、寒さに凍える世界中の人々にも、早く春が来ますように。             ジュース予約賜ります。
         

知永峠のその先のたり春の海