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清家農園みかん山通信(138号)令和2年3月号

光が春の色になり風も優しさを増し、冬の間固くなっていた体も心も何となくほんわか解れてきたような感じがします。さくらんぼの花も咲き、家の周りの畑は菜の花盛り。卒業式ももうすぐ、のはずでした。
ところがコロナウイルスの蔓延予防の突然の休校で、小学校卒業予定の孫も卒業式は未定との事。街は何処もマスクの人々。お年寄りや持病の有る方はハイリスクというので正に街からお年寄りが消えたかに見える程です。そういう私も紛れもないお年寄りのはずなのですが、本人に自覚が乏しく、沖縄行き決行。(実に顰蹙「ひんしゅく」ものですが)
夫、善一のアメリカ時代、大学寮や、学資稼ぎの奴隷のような労働レモンピッキング(穫り)の日々を共に過ごした仲間達の集まり「アリゾナ会」が沖縄県名護市で行われたのです。私は付録で付いて行くのですが、沖縄は行ったことがないので、この機会を逃したくないと思っていました。私「どうする?」夫「勿論行く!」で決まりました。
半世紀近く前私達はアフリカで暮らしていました。夫はマラリア経験者。私は川の水を飲み水にしてサバンナで暮らしていましたので上流でコレラが発生したこともありました。勿論周りはマラリア経験者だらけ。夫の非科学的論考に依ると、「海外協力隊のアフリカ帰りがコロナごときで大事な行事をキャンセル出来るか」実に何の根拠もない暴論ではありますし、自分が既に若くはなく老人である自覚が全く無い迷惑極まりない結論では有りましたが、私も沖縄の誘惑に勝てず、「私はコレラにもマラリアにも罹らなかったんだし」と、やはり自分がオバアであることを投げ捨てた結論を選んでしまいました。
斯くして出発。松山空港はほとんど若者達の世界。私達夫婦は最年長者だったかも知れません。カウンターの受付嬢も手持ち無沙汰状態。マスクは勿論、なるべく何処も触らず、何かに触った時は直ちに持参の除菌シートで手を拭き、咳は堪え搭乗。飛行機はガラガラ。ゆったりと手荷物様も座席にシートベルト着用で座らせて貰いました
初めての沖縄はやはり暖かくもうすこし薄着で来ればよかったと後悔。ホテルもガラガラ。しかし夜の宴会はジジババで大盛況。私は付録なので猫を被って大人しくしていましたが、男性陣は元重役も組合長も20歳の若者に戻って、「お前」「俺」ととても楽しそうでした。苦楽を共にした損得関係のない友達は人生を豊かにさせてくれる財産なのかも知れません。沖縄在住の幹事さんの案内でひめゆりの塔や平和資料館、平和記念公園を回りました。戦争の生き残りを父母に持ち、戦後のアメリカでお世話になった日本のかつての若者が、アメリカとの戦争で命を落とすことを強制された若者や市井の人々、そして兵隊達を慰霊する場を訪れ頭を垂れる姿、胸にこみ上げるものが有りました。幹事さんはもの静かな寡黙な方でしたが、前記の二箇所は沖縄に来たら必ず訪れて欲しい所とはっきり言われたことに彼の沖縄県民としての強い意志を感じました。私達平和ボケした日本人はすべからく(当然)沖縄の犠牲を忘れてはならないと胸に刻みました。コロナウイルスは正直恐ろしく一日も早く沈静化してほしいと願っています。同時に、何となく戦前に戻りつつあるような昨今、余りニュースにもならないので見えない脅威ですが、子供や孫達の世代を戦争で失う事が無い様、矢張り気をつけなければいけないと思っています。         
4月は清見 デコポン ジュースです!

野遊びやしんがり婆の労られ