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清家農園みかん山通信(113号)平成28年2月号

立春も間近、チラホラと梅の花が咲き始めました。たった1週間前には日本中が寒さに震え、みかん山も一面白い雪景色でした。袋をかけて樹上完熟させているデコポン、はるみ、せとかや清見などが寒害を受けてしまうのでは、と心配でたまりませんでした。−1℃〜−3℃の低温が数時間続くと柑橘が苦くなったり簀が入ったりします。今のところデコポンは大丈夫そうなのですが、被害の状況、程度は、すべてを収穫してみないとはっきり判りません。多分大丈夫だろうと言う希望的観測です。「もし全部ダメだったらどうしようか」と私が夫に言いましたら「命取られたわけじゃないから、田んぼで穫れた米と畑の野菜で暮らせばどうってこと無いやろ」そう言われれば頷くしかありませんけど、、、「私はチョコレート好きだし、善一はお酒が好きだから、自分でカカオ豆育てたり、どぶろく造らなければいけんようになったらたいへんだ。」と内心思ってはいましたが。なるようにしかなりません。これから子供を育て上げ、仕送りをしなければいけないわけではないので気楽といえば気楽。歳を重ねると楽なこともたまにはあるものですね。後々の心配も大事ですが。まずは目先のことから。そうです魔の青色申告の季節です。次年度更新に手間取り、やっと通帳と買掛表入力だけ終了しました。さてこれからが正念場。育成資産(つまり苗木)の育成費の計算や成木(実のなっている木)や資産の償却費の計算、貸借対照表etc、etc。決算書を経て申告書にたどり着くまでの道のりを考えると、その昔
キリマンジャロ登山の際、頂上遥か遠く、最初の山小屋についた時のような気分がします。
お約束のカンボジアの地雷処理の高山さんの話の続きです。一言でいえば地雷処理とは命がけの仕事です。私達もその現場に同行させてもらいましたが、地雷が爆発するときの音は「ドーン」とお腹の底に響く音でした。皆が笑顔になる、巨大な花火の音とそっくりなのに命を奪う恐ろしい音なのでした。農作物を作っている畑の中に未だに地雷が埋まっていることがあるのですから、身の毛がよだつ話です。なにしろつい20年程前の激戦地、各々筆舌に尽くしがたい過去を胸の内に秘めているのでしょうが、村の人々はみな穏やかな笑顔で貧しくもゆったりと暮らしているように見えました。高山さんご自慢のお手製のペットボトルに穴を開けて逆さに吊るしたシャワーの使い方をついに会得できず、40年前のアフリカ暮らしでやっていたように、洗面器で水をかぶるしか出来なかった私としては、彼の質素な暮らしぶりと反比例するかのような、教育、インフラ整備、産業振興と多方面に渡る地域振興への貢献に学ぶこと多々有りでした。小学校にも訪問しましたが、高山さんが生徒に履物の脱ぎ方について厳しく注意していたので、まるで近所のお寺の和尚様みたいだと思いました。高山さんが案内してくださった場所で最も心を打たれたのは4畳半ぐらいのコンクリート製の祠でした。彼が所要で日本に帰国するため村を離れた折、対戦車地雷の処理中の爆発事故で命を落とした7人のデマイナー達(村民の中から選ばれた地雷を処理する隊員。給料は高山さんのNPOが払っている)が祀られていました。左隅には8人目を祀る空間がありました。「ここに私が入る予定です」こともなげに言う高山さん。彼の凄さを感じました。仕事の合間をぬって色々なことをやらなければいけないだろうけれど、吉田の中高生をぜひこの村に連れて来たい、と決意して帰国し、物の有りすぎる自宅のシャワートイレに座り温かいお風呂に入り、そして日々仕事に追われる夫と私。楽しそうに質素な暮らしと命がけの仕事をしている高山さん。どちらが幸せなのかな。

3月はハルカ、はるみ、せとかが出番を待っています。

相剋を照らして白し冬の月