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清家農園みかん山通信(65号)平成20年2月号

 皆様一年中で最も寒い季節ですね。灯油が高い昨今、私は着膨れて肩が凝っています。東京に雪が降っている様子がテレビに映っています。外は冷たい雨です。
 とは言え、二、三日前には通りかかった道の上の枝いっぱいに紅梅が咲いていました。余りの可憐さに、思わず車を止め外に出て見上げると、青い空と紅梅の紅が見事に溶け合ってその美しいこと。怒濤の十二月が明け、一息つく間もなく走り続けた一月、気がつくと二月、「そんなにあくせくばかりしてないで、私を眺めて少しはゆったりした気分になってね」と呼び止められたような気がしました。さて十二月、一月号に書きましたように、善一の祖父善太郎は思う存分の人生を送ったように思えますが、悲しい思いも十分経験したのでした。それは長男を戦争で失った事です。長男定一郎は相思相愛の妻静枝を残して、昭和十二年、二十五歳という若さで戦病死しました。お家第一の昔の事ゆえ、静枝は間もなく次男義樹の妻となりました。兄夫婦の相愛ぶりを知っていた義樹は兄嫁との結婚に苦悩しました。兄嫁静枝もどんなにか辛かったことでしょう。しかしその義樹も静枝を残して遠くフィリピンの戦場へと出征して行きました。義樹が出征して数年、静枝は病気の為この世を去ります。二十七年の短い生涯でした。子供は居ませんでした。頼りとなる夫は次々と戦場にとられ、大姑、舅、姑に仕え、子も無く、病に倒れ、どんなにか心細い最後だったことでしょう。同じ清家の嫁として、切なくて切なくて涙が出ます。敗戦後数ヶ月、所属部隊がフィリピンの孤島に置き去りにされ、かぼちゃで命を繋いでいた義樹が、栄養失調でお腹を大きく膨らませ、骨と皮になって復員してきました。生死不明、音信不通だった次男義樹帰還の知らせを受けた善太郎は狂喜し、大八車に戸板を乗せ隣村の駅まで、義樹を迎えに飛んで行きました。義樹の回復を待って、善太郎は倉にある米を惜しげもなく使って喜びの大宴会をしたそうです。義樹は清家の六代目を継ぎ同じ東蓮寺谷のイシエと結婚して長男善一をもうけます。善太郎は初孫の善一を、長男定一郎の生まれ変わりと喜び、それはそれは大切に可愛がりました。お陰で我儘になってしまったと義母イシエの弁ですが、私も全く同感です。でも他人の倍ぐらい良く働くので仕方ないと諦めています。
四代目善太郎を中心にした私の知る限りの清家のお話でした。今後、八代央樹がどの様に清家農園を継いでゆくのか心配の種は尽きません。でも考えてみれば、海のものとも山のものとも判らないみかん産直を始めた善一を、三十数年前に両親はハラハラしながら見守っていた筈です。いつの時代も親は生涯、子供を案じ続けるものなのですね。善一の様に強烈な前進指向はありませんが、「ソフト指向もまた良し、きっとそれなりに何とかやってゆくだろう」と信じることに致しましょう。

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