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清家農園みかん山通信(64号)平成20年1月号

 明けましておめでとうございます。皆様のお健やかな新年をお慶び申し上げます。
こちら愛媛は大晦日から元旦に掛けて時雨模様となり、長男と長女の家族が無事帰省出来るかと心配しました。南国の高速道路は雪に弱く直ぐに不通になるのですが、どちらも都合よく帰省することが出来ました。生まれて初めてお正月を迎える2人の赤ちゃん達を含めて総勢11人の賑やかな三が日でした。
 さて12月号の続きでございますが、街まで、転落防止の金網を買いに行った私、バスに乗り遅れて4q余りの道則を金網を抱え次男をおんぶして歩き始めました。街を抜け住宅地に差し掛かる頃には背中の子供は石の様に重くなり、負ぶい紐は肩にくい込んできました。抱えた金網は、まるで穴がふさがって鉄の塊になってしまったかのようでした。肩は痛く腕はしびれ道は遠く、どうしてこんなに子供を太らせてしまったのかと、つくづく後悔しました。住宅地を過ぎ、田圃が広がってきました。田圃の中をまっすぐに走る通学路は近道、今まで通りの県道を行くと道は大きくカーブして距離は長くなる。私は県道を選びました。「どうか知り合いの車に出会いますように」と念じつつ、汗にまみれて歩きました。願いはなかなか叶わず、ついに山の上の我が家が見えてきました。「人を当てにせず、近道を行けばよかった」泣きたい思いでした。その時「やす子さんどうしたん?」救いの声。万歳三唱。めでたし
めでたし。あれから三十数年、子供達を守ってくれた例の金網はすっかり錆びて赤茶けています。金網を見る度に、あの時の肩と腕の痛みが昨日の事のように蘇ります。アフリカのサバンナで電気も水道もない暮らしをした、なんて粋がっていた自分を恥ずかしく思った苦い思い出です。松山迄歩き通したササに脱帽。慶応生まれの女は凄い。主役の善太郎から話が随分それてしまいました。日露戦争から無事帰還した善太郎は隣の谷の他家に嫁いでいたムリを熱烈に愛し遂に結婚。善太郎に応えたムリも凄い。ムリは次男義樹(善一の父)を産んで間もなく亡くなりました。最愛の妻を亡くした善太郎は乳飲み子を抱え、やむなく再婚するのですが善太郎が気に入った嫁は母ササが気に入らず、ササが気に入った嫁は善太郎が気に入らず、遂にモトに到るまで6人の女性が現れては消えていったのでありました。そこにどの様なドラマがあったのかは今では誰も知る由もありません。私が清家に嫁いで(今や古い言葉となった感)来た時、善太郎7番目の妻モトは80歳、94歳で亡くなる迄孫嫁の私を可愛がってくれました。鍬の使い方を辛抱強く教えてくれたのもモトばあちゃんでした。モトばあちゃんが「それ食べよやれ食べよ」と勧めてくれた苦汁菜や芋殻の煮物、胡麻の葉の和え物、風呂の薪の炭で焼た鯵や鰯、冬になると火鉢で焼いてくれた酒粕等々、懐かしい々味です。熱い酒粕をフー々云って食べながら善太郎じいちゃんの自慢を聞いたものでした。モトばあちゃん自慢の善太郎は上下160畳敷き二階建ての豪壮な養蚕を建て、結婚式を3回ないし4回行い、村会議員をやり、泊りがけで商人が売りに来るほど漆器に凝り、その結果2町歩の田畑を失いました。お陰で孫嫁恭子は過労で倒れることも無く今日に到っております。もし善太郎じいちゃんが2町歩を手放していなかったらと思うとゾッとします。善太郎じいちゃんありがとう。

えくぼの手合はせて父祖に初参り