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清家農園みかん山通信(77号)平成22年2月号

 寒い寒いと着膨れて、12月中旬から延々と毎日倉庫に籠ってみかんの箱詰めをしている内に1月も終わり、気がつくと、四方八方に広がり放題の梅の枝の蕾が一輪二輪と開き、庭と言うより空き地と呼ぶに相応しい家の周りには水仙が無秩序に咲き広がって香りを放ち、せかせかと毎日を過ごす家主にもうちょっと落ち着きなさいと諭しています。三寒四温には早すぎる1月から、春の様に暖かい日と震え上がる程の寒い日が交互にやって来て、振幅の激しい気温に人間も植物も対応に大わらわというところです。しかし激震のハイチの人々を思えばどうと言うこともありません。地震と言えば最近では阪神大震災ですが、今は亡き父が5歳で関東大震災に遭い火に追われ、阿鼻叫喚、断末魔の光景の中、命からがら上野の山に逃げお腹ぺこぺこで三日掛かって祖父の故郷の埼玉迄たどり着いたという話を思い出します。ハイチ同様、当時の日本政府からは何の援助も無く、ましてや海外からの援助などあるはずもなく、人々は自力で立ち上がるしかありませんでした。幸い家族は欠けることなく祖父の故郷に戻った父でしたが、住む家は焼け生活の基盤のすべてを失いました。地震後祖父の生活の立て直しはうまくゆかず、父の少年時代は苦難の道でした。ハイチの人々が瓦礫の中から一日も早く立ち直り普通の生活が出来ることを切に願っています。あちこちの募金に少しずつ応えるぐらいでお茶を濁している自分に、これでいいのかと問い続け胸が痛い昨今ではあります。ハイチ問題とは比ぶべくもありませんが二つ三つ気になることがあります。先日JICA青年招聘のモンゴルからの研修生のホームスティのお手伝いをしたのですが、ほとんどの研修生は満足してくれましたが、ホストファミリーの対応に不平不満を持ったまま帰国していった研修生がいたことが判りました。お世話をしてくださったホストファミリーは感謝をして貰いたくてお世話したのでは無いのでしょうが、古くからの知人でもありますし、気の毒でお知らせすることが出来ませんでした。どこの国にも色々な人がいますのでそれ程落ち込むこともないと自分に言い聞かせつつ、感謝の大切さを学んだ出来事でした。最も気に掛かるのは単身赴任の長男一家のこと、嫁の育児の孤軍奮闘を思うと泣けてきます。次はマラウィの次男のこと、そして二年間の育児休暇の後産婦人科医として働いている娘のことです。時には夜中に、幼い子供達を夫に託して病院に駆け付けることもあるそうですが、日給は我が家のみかん取りさんより低いのです。産婦人科医不足が叫ばれているにも拘わらず、実態はこんなものなのかと驚き呆れました。今の日本での、幼い子供を育てながら女性が働く厳しさは、制度も職場の意識もまだまだ昔とほとんど変わっていないと言う実状に愕然とし、怒りが込み上げてきます。高速と国道で二時間足らずの道のりとはいえいざという時に助けてあげられない距離ですので娘が綱渡りをするような生活にならないよう願っています。すでに大人の子供達の心配よりも、国際交流協会の補助申請の後始末の決算書報告書作り、青色申告にまだぜーんぜん手をつけてないのは誰だと言われそう。本業のポンカン伊予柑もせっせとセールスしなければ!!

水仙の席巻したる山の家