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清家農園みかん山通信(151号)令和4年4月号

 桜が満開です。コロナのご時世、遠出はできませんが、近くのダム湖の周りや、隣にある、その名も桜公園の桜があまりにもきれいなので、用事で農協に出かけた帰り道、我慢できずに車を降りて桜の下に立ちました。美しいものを見ると人間は優しい気持になり幸せを感じます。でも今年は爛漫の桜の彼方にウクライナの悲惨な瓦礫の山が透けて見えてしまう気がして、申し訳無さが先に立って無心にうっとりできませんでした。春まだ浅いウクライナ。流浪の民となってしまった人々はこれから先どう生きてゆけばよいのでしょうか?
私が生まれる2年前まで日本は戦争をしていました。東京大空襲では一晩に死者10万5千人、負傷者15万人、罹災家屋70万戸、広島の原爆では一瞬にして死者14万人、負傷者7万9千人、長崎の原爆では死者7万4千人、負傷者7万4千人、街は破壊し尽くされました。日本は戦争の加害者であり被害者でもありました。その後戦争から遠ざかり生き残った人々の努力で廃墟から立ち直ることができました。
しかし世界はその後、朝鮮戦争、ベトナム、カンボジア、クロアチア、東チモール、シリア、イラク、エチオピア、チェチェン、アフガニスタン、イエメン、etc枚挙に暇がない程戦争に明け暮れています。
一体どうすれば世界の人々が争わずに仲良く平和に暮らせるのでしょうか?もしかして「欲」を捨てることでしょうか?欲張って色々かき集めても人は死んでゆく時は身一つで旅立つのですから。
一人一人の「もっと美味しいものを食べたい」「もっときれいな服を着たい」「もっと素敵な家に住みたい」「もっと暖かく暮らしたい」「もっと涼しく暮らしたい」「もっと遠くに、もっと早く行きたい」」「もっと権力が欲しい」欲には限りがありませんので「もっと、もっと、もっと」が集まって自然を破壊し、国家の「もっと領土が欲しい」になってゆくのではないかと思うのです。
家の近くにある我が家のお墓に在る大きな桜の木が満開です。夫・善一の伯父が植えた桜です。「戦争から帰って来る頃には大きくなっているだろうなぁ」と言って出征した伯父は帰ってきませんでした。新婚の妻を残し弱冠25歳の戦死でした。いまウクライナや世界のあちこちでは同じことが繰り返されています。アフガニスタンやシリア、ミャンマー、ウクライナで亡くなったり難民になった人々が、子供達や孫達と重なっていたたまれない気持ちになります。「誰もが平和な世の中で花を眺め、働き、食べ、寝られる暮らし」が出来る世界が訪れるように一人一人が出来ることを真剣に考え実行するよう努力しなければいけないよね」と友だちと話しています。ことはそう簡単には進まないとは思いますが、だからと言って、このまま手をこまぬいていれば人類は戦争から永久に手を切れないでしょう。
世界中のあらゆる人達が、政治家は政治家の、国連の人達は国連の、庶民は庶民の立場で、平和を求め行動できれば一足飛びとはゆかない迄も、少しは前進できると思うのは甘過ぎる考えでしょうか?命を懸けて反戦活動や難民救済に当たっている方達を尊敬しながら、みかん山のてっぺんで何の足しにもならない蜜柑山通信を書いている自分の無力さが嫌になりますが、せめて子や孫や地域の子供達に戦争の不毛さや悲惨さを語り、絶えず平和の尊さを知らしめること、そしてささやかでも寄付を続け、難民を支える末端を担うことを続けてゆこうと思います。
5月は清見タンゴールとポメロ(河内晩柑)、ジュース各種です

二十五で逝きし兵守る桜かな