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清家農園みかん山通信(128号)平成30年11月号

 半年ぶりの蜜柑山通信です。皆様いかがお過ごしでしたでしょうか?
こちら愛媛の吉田町は日常の挨拶が、「今日は」の代わりに「どうやった?(方言で被害の程度はどの位でしたか)」になってしまいました。梅雨明け近い7月7日の朝、吉田町は2800箇所のがけ崩れと河川の氾濫で、平地の住宅は水没、斜面下の家は崩落した土砂で埋まるという災害に見舞われました。東北松島での青年海外協力隊のタンザニアOB会(私は付録で参加)の帰途盛岡に寄り、隊員時代にケニアで共に暮らし、生徒か先生か区別がつかない程お粗末で不出来な私にいろいろ教え助けてくれたかつての同僚を訪ね、更にもう1箇所、息子がお世話になった協力隊の訓練所がある福島の二本松の友人宅も訪ね、最後に埼玉の妹宅に泊まって「しまなみ海道や温泉に行きたいわ」という妹も同乗し、東京からフェリーに乗り7月6日午後徳島港着、途中高松で呑気に讃岐うどんを食べ、だんだんひどくなる雨の中を家路に向かいました。家迄あと40分という所の大州という町を通り高速の下を見ると田んぼが水浸しになっていました。数時間後国道56号はがけ崩れで不通となり危機一髪の帰還でした。その晩は天の蓋が抜けてしまったかと思うほどの大雨となり、翌朝起きて間もなく様子を見に外へ出た善一が「麓は湖になっている、うちの田んぼも水の下だ」と言ったので、台所の窓を開けて見ると脇の小道に土砂を含んだ水が勢いよく流れ下っていきました。「家の上の方の何処かが抜けている(土砂崩れが起きている)」と判った瞬間は生きた心地がしませんでした。山の中腹にある我が家はお隣(斜面に家が建っているので、同じ高さには家が1軒ずつ建っている。我が家から上は家が2軒のみ。その上は蜜柑山)の1メートル手前で崖崩れの土砂が止まり、胸を撫で下ろしました。一番上の家も奇跡的に無事でしたが、崖崩れ止めなのに崩れてしまった擁壁と土砂が庭先の野菜畑の上に落ち地形が変わっていました。消防団で出動した次男が「車が流されそうになったので引き返して来た。今度は歩いて行ってくる」と土砂崩れの崖の下の道を通って出かけていきました。後日聞いたのですが、その後水門の上に乗って濁流渦巻く川の水門のバルブを「落ちたら死ぬな」(元水泳部なのだ)と思いながら開けたそうです。なかなか結婚しないので、結構ギクシャクしている親子ではありますが、それを聞いたときはゾッとしました。避難勧告も出ましたが、麓まで降りるのにも途中の道が崩れそうで危険極まりなく、肝心の避難所となる川の傍にある公民館に辿り着くには橋を渡らなければいけません。その川も氾濫し辺り一帯は湖。公民館も1階は水没。1番安全な場所はと考えると家の近くのお墓の前でした。でもお墓の前で傘をさして立っている訳にもいきませんし結局家の2階が一番安全という結論でした。時間の経過とともに被害の甚大さに慄然としました。家が海まで流され亡くなられた方や、街へ出る県道の横には瓦礫と化した家の残骸がまだそのままあります。被害にあったお宅もリフォームが進んでいる家、住む人を失くし空っぽのままの家、取り壊された家等様々な格差があります。蜜柑山も地獄のような惨状もあれば無傷の山もあり様々です。家も倉庫も車も家財も農機具も蜜柑山も失った知り合いも沢山います。人口も20%近く減ったそうです。長い間不自由だった水。全国からのお心遣い、ご心配、ご支援、本当にありがとうございました。「生きていたから良しとして前進」今の吉田町民の思いです。

ほんとのみかん清家農園

再生の印に送る青みかん