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清家農園みかん山通信(109号)平成27年4月号

 春爛漫です。ダム湖周りの桜も、夫の、戦死した伯父が出征前に植えたお墓の桜の大木も、草だらけになった野菜畑の脇にある桃の花も満開で、周りの山々にも淡い色の山桜がみかんの樹々の間からボーッと浮かび上がっています。あちらもこちらも濃淡のピンクの世界です。荒らした庭には、鮮やかな黄色のレンギョウ とりそびれた菜っ葉の菜の花、球根を掘りあげてもやらなかったヒヤシンスやチューリップが健気にも咲いています。否応なしに春なんだなぁ。
「人間の営みなどちっぽけなものさ」と言われているような気がするのは、ちっぽけな悩みを抱えているからかもしれません。8日には小学校の入学式があります。入学児童7名。来賓20名。3月の卒業生は6名でしたから1名増え全校児童は51名になり喜ばしいことです。でも手放しで喜ぶことは出来ません。来年、再来年と入学児童は減ることがすでに判っています。このままでは開校140年余りの喜佐方小学校の存続が危ぶまれます。今でも1学年単独では野球もサッカーも出来ません。夫、善一の頃は1学年2クラス80名以上、私たち夫婦の子供達の頃は1学年1クラス30名前後、そして最近は1学年数名がやっと、過疎の波は確実にここ喜佐方(旧村)に押し寄せています。暫くすると小学校は老人施設にでもなり、アメリカのように子供達はスクールバスで吉田の中心部の小学校に通うようになるのでしょうか。数年前の強制的な合併で吉田町は宇和島市吉田町となり、役場は小規模な支所となって職員は宇和島市内の庁舎に車で通うようになりました。農業と漁業以外ほとんど何の産業もない吉田町にとって役場は最も大きな雇用口でした。そうでなくても閑古鳥が鳴いていた吉田の商店街は大事なお客様だった役場の職員に去られすっかり寂れてしまいました。私は郵便局にお客様からの送りの注文みかんを毎日のように持って行きますが、行き帰りに商店街を見渡すとまるでゴーストタウンのように誰一人、人が歩いていない時があります。最もよく見かけるのは老人車を押しているお年寄りです。登下校の子供達はプラチナかダイアモンドのように輝いて見えます。2番目の大企業は農協ですが農協も改革の嵐が吹き荒れているので喜佐方にある支所では3月から窓口の業務が無くなり、ATMがデンと座っています。込み入ったお金の出し入れその他は、他の地区にある本所まで車で行かなければなりません。車の運転が出来ないお年寄りや障害者はバスの便がないので、家の人に頼んで連れて行って貰わなければなりません。何でも政府の方針で、窓口に3人以上の職員が居ないと金融業務が出来なくなったそうです。田舎の端々の農協の窓口に3人以上の人員を配置出来る所がどこにあるというのでしょう。こうして端々はどんどん追い詰められ切り捨てられ、その中でも弱者が最も影響を受けています。でも嘆いてばかりいても何も良くなりません。1円も必要とせずに、山も海もすぐそこに在り、海に向かって満開の桜が散ってゆく、この世のものとは思えない程美しい光景や、本当に笑って見えるような春の山が座敷から眺められる贅沢は、便利さから程遠い過疎だからこそ得られる幸せと言えます。この幸せがいつまで維持できるかが問題ですが、希望を持って、地域のために出来る事はみんなで力を合わせ、もうすぐ始まる県会議員の選挙にもちゃんと投票してふるさと愛媛の為に粉骨砕身働いてくれる人を選ばなければと思っています。何事も裏表が在り良い面と悪い面はリバーシブルになってくっついているのですね。
5月6月はデコポン、清見とジュース各種&ポメロです。

ほんとのみかん清家農園  http://mikanyama.com/

春愁や生者必滅会者定離