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清家農園みかん山通信(161号)令和6年2月号

 元旦の能登半島の大地震から早1ヶ月が経ちました。被災者の皆さんは、毎日を必死に過ごしておられる事と思います。人間が生きてゆくのに最低限必要な水とトイレさえ満足に無い、日常と余りにもかけ離れた暮らしの悲惨さは、想像を絶するものがあります。ましてや雪と寒さの中、高齢者や赤ちゃんはどんなにかダメージを受けていることでしょう。胸が痛くなります。
 山に成らせている未収穫のみかんが凍りそうな寒さと、収穫したみかんも汗をかく程の冬とは思えない暖かさがジェットコースターのように、交互に訪れるこの冬、みかんだけではなく、人間、殊に高齢者は体の調子を整えるのが大変です。私も、「歩けばいいのになぁ」と思いながらついつい億劫になって、パソコンの前と倉庫の往復以外はチョコッと野菜畑に行く位です。田舎は都会ほど歩きません。街まで遠いので、何処に行くにも家の前からすぐ車に乗り目的地に着いてもほんの少し歩くだけです。結婚して間もない頃、80歳を超えた夫の祖母は、腰が曲がっていたにも関わらず、みかん山の中腹の我が家から麓の農協まで、急な人道を、平気で買い物に行ったり、1キロ先のみかん山の木の間に胡麻や大豆、小豆などを植えてせっせと通っていました。もちろん歩きです。我が家からは、何処へ行くにも坂を登るか下るかしなければいけませんので、足腰が丈夫でなければ生きていけなかったのです。蚕をかっていた頃は、小柄な体で、1日に何度も山に駆け上がり桑の葉を刈って、上下で80畳もある大きな2階建ての養蚕の建物との往復をしたそうです。それに比べて、車という手段に頼って暮らしている私のなんとひ弱なことか。お恥ずかしい限りです。ちなみに、祖母は寝込みもせず、94歳で長寿を全うしました。
なかなか真似のできない理想の逝き方だと思いました。
 夫が病気になりました。自慢ですが、家族の為、身を粉にして実に良く働く人でした。仕事が終わった後の晩酌を楽しみにしていましたが、今はストップです。
今年は結婚して50年目の金婚の年です。世の中では親の金婚を祝って子供達がお祝いをするそうですが、我が家の3人の子供達は誰一人気付く者はなく、「金婚なのよ」と言っても「フーン」という感じでした。代わりに市役所から夫婦揃っての記念写真の申し込み票と、記念品の夫婦茶碗と、表彰状が届きました。表彰されるようなことは何もしていませんが、返すのも大人気ないので頂きました。若い頃には金婚式など想像もできませんでしたが、あっという間の50年でした。お祖母ちゃんのように元気溌剌で迎えたかったのですがそれは叶いませんでした。兎も角、喧嘩しながらでも50年間を共に生きてきました。夫が元のように元気になって、晩酌が出来て、生き甲斐である、カンボジアで地雷処理をしている高山さんの所へ又、中高生を引率して行けるようになるよう毎日願っているところです。 
   3月は   はるみ せとか デコポン  ジュースです

幸せを問えば水仙咲くばかり