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2024 (令和6年)
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清家農園みかん山通信(160号)令和6年1月号何がめでたいのかとお叱りを受けそうな年明けでした。年末の、能力を超えた忙しさで疲れた心身をほぐそうと31日から2日迄、近場の山の中、肱川温泉に泊りがけで行って来ました。長男長女家族を含めて9人の大所帯でした。長男の妻は体の不自由なお母さんの介護で来られず、受験生の孫とその母親である長女も欠席でした。年配の女性(自分が老婆という認識が薄い私)と186pを筆頭に5人の大男と2人の女子高校生達、小学生の男の子という母親らしき存在の無い不思議な団体と宿のスタッフは思ったことでしょう。一同が会した31日の夕食後、疲労困憊の私と体調不良の夫は早々と就寝。 明けて元旦、朝食後も子供達や孫との交流をそこそこに又もや部屋で一寝入り、目覚めて昼食後、寝ているばかりではいけないと、ジジババが孫達を誘って、眼の前のダム湖を隔てた向かいの丘まで散歩に出掛けました。此処数ヶ月まとまった雨が降らないので干上がり力無く横たわっている肱川沿いの坂道をフーフー言いながら登ってゆくと、道端に5年前の豪雨災害の際、肱川氾濫で家を流され犠牲者となられた方々の慰霊碑が建っており、孫達が丁寧に碑の文字を読んでいました。 我が宇和島市吉田町でも同じ日の災害で13人の方が亡くなられました。崖崩れと川の氾濫、ため池の決壊で平地は泥の湖と化し、みかん山や住宅や道が泥流に流され、海にまで流された家もありました。「昨日バスで一緒になり又明日ねと言葉を交わした小学生が亡くなってしまった」と悲しみのあまりしばらく立ち直れない知人の高校生もいました。近所の家が潰れ消防団で出動し、事切れているおじさんを掘り出した村の若者もいます。吉田町には慰霊碑こそ有りませんが、町民の誰の胸にも街が村が山が地獄と化したあの日の光景がありありと刻まれています。 複雑な思いで丘の上に着き、今は枯れて大人しい肱川と周囲の眠る山々を眺め、年末の1ヶ月パソコン漬けだったので、弱った脚には少々無理をさせたかも知れないと膝を擦りつつ戻ったホテルの部屋でテレビを付けると、北陸の惨憺たる地震のニュースが流れており震えました。なんという痛ましいお正月。 長男家族を港に見送り、夕方自宅に帰りTVをつけるとまたもや羽田の飛行機接触事故のニュース。しかも救援機とは!日本中のお正月気分は心配と心痛に取って代わられました。そうでなくとも「平和な日本の、ホテルでのんびり一族のお正月を過ごせてありがたいなぁ。ガザやウクライナ、世界中の難民の人々ごめんなさいね。」と心の底で思いつつではあっても、穏やかなお正月だったはずが、誰もが心を痛めずにはいられない年始めとなってしまいました。被災者の皆さんが寒空の中一人でも多く生き延びて下さいと祈っています。又、災害への備えを検討し見直し改め実行しなければと反省しています。 初日の出拝みて命確かむる |